旅行・地域

日本を捨てた男たち

フィリッピンで経済的に困窮し、ホームレスになる日本人中高年男性が増えているらしい。その、ルポ。

日本脱出願望は私にもあるし(実現は難しいが)、異国の若い女性と同棲するのは悪くない。しかし、ホームレスにはなりたくない。そんな気持ちで本書を読み始めた。

大体日本のフィリッピンパブで働いていた女性が好きになり、フィリッピンに渡って結婚する。歳の差婚。やがて金がなくなり、その後フィリッピンの奥さんに愛想を尽かされて追い出され、ホームレスになる、というのが典型的なパターン。

如何にもフィリッピン女性が勘定高いようにも思えるが、男のほうにも多くの問題があるらしい。

このような男の共通点と私に思えたのは、

1.嘘つき。窮迫した状況にもよるのだろうが、言うことに嘘が多い。その場限りの嘘。多くは見栄のため。

2.日本で不義理を重ねているので、日本で助けてくれる人がいない。病気で帰っても空港に迎えに来てくれる人がいない。帰るところはもちろんない。

3.帰りの航空運賃を残していないので、自力では帰れない。ヴィザ切れによる不法滞在なので、帰るにはその罰金を払わなければいけないがそれもない。

4.周囲のフィリッピン人が見兼ねて助けてくれている。そのお情けで何とか生きている。

どうも嫌な奴が多いようだ。あまりお付き合い願いたくない人たち。しかし、そんな人たちさえ受け入れるフィリッピンの人たちはどうなっているのだろう?

キリスト教のためだろう、というのが一つの答え。
資本主義社会以前の暖かさ、というのがもう一つの答え。
あるいはフィリッピン特融の国民性だろうか?

一瞬の天国を味わった男たち。羨ましくもある。ホームレスにはなりたくないが。

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偉い人がいた

感心。偉い人がいたもんだ。
しかし、63歳でなくなるとは、惜しいことをした。

インドネシア、ヴェトナム、ミャンマー、スリランカで活躍した国際NGOの活動報告だが、主たる活動地域はミャンマーである。

先ず彼の立ち上げたNGOはBridge Asia Japan(BAJ)。
http://www.baj-npo.org/
活躍地域はミャンマー北西部のラカイン州。ここは隣国バングラデシュと国境を接しており、同国からの難民(イスラム教徒)は不法入国者としてミャンマー国民とみなされていない(IDカードもパスポートも取得できない)。

1994年、インドネシアで活動を開始した著者は、UNHCR(国連の難民支援機関)  http://www.japanforunhcr.org/ が、ミャンマーで活動するNGOを探していると言う話を聞く。これに応えてラカイン州マウ ンドーを本拠地として、自動車修理、ボートの補修を開始する。そのために修理工場・技術センターを建設、1995年に完成した技術センターで帰還難民や地 元青年への技術訓練を開始する。

1995年から97年に郵政省からの寄付金で、村人に大工仕事や左官仕事を教えながら、当地で初めての鉄筋コンクリート製小学校を建設。

1998年、村人の協力を得て、鉄筋コンクリート製の橋を作った。建設現場の訓練生にはわざと異なる民族を集めて民族の融和を狙った。このようにしてBAJは2008年末までに213本の橋を作った。

2001年、ラカイン州シトウェにBAJ技術訓練学校を開設、自動車整備、電気修理、溶接の3コース。従来の理論中心でなく実技に重点を置いた訓練を行った。

2004年に卒業生を調査し、その要望に応えて、学校敷地内に修理工場を作って外部からの注文を受けられるようにした。この学校は2007年に国境地域開発省に引き継いだ。それまでの5年半に485人が卒業した。

1999年には、技術センター内に女性のための裁縫技術訓練コースを開いて、地域の女性リーダー育成を狙った。イスラム教徒と仏教徒を同じクラス に入れた。このコースを卒業した女性は1800人以上。ミシンでなく、日本の小中学校で使った裁縫箱を寄付してもらい、これを使った。寄付された裁縫箱は 2700セット。
2005年から、ミャンマー人女性スタッフによる「家族の健康と情報交流コース」を開いた。

1998年、ミャンマー政府から、マンダレー管区の中央乾燥地域で井戸を掘ってくれと言う依頼が来た。そこは殆ど仏教徒で、帯水層は地下 200~300メートルである。最初の井戸はマンダレー管区ニャンウー郡ニャントゥ村。その後9年間でBAJは100本の井戸を掘り、135本の井戸を修 理した。

BAJは現在東京に1、ミャンマーに8、ヴェトナムに2、の事務所を持っている。日本人スタッフ13名、現地人スタッフ159名、計172名である。

2004年から、UNCHRの要請でカレン州、モン州の生活用水供給事業にも協力している。

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ラオスの織物

谷由紀子さんの作品を見てお話を聴いた。

彼女はラオスに10年住んで、現地の人たちの持っている技術を生かしながら、自分のデザインで布(木綿、絹、葛)を織らせ、日本で販売することにより、現地の人たちの経済に寄与することによって、その伝統を新しい形で残して行こうとしている。

話に聞くと、ラオスの村の現状はミャンマーよりはかなり良いと感じる。ここ10年で随分発展したようだ。電話もあるし、インターネットも通じている。織物の技術もミャンマーより優れているように思う。少なくともチン州よりは。

しかし、言葉の端々から、彼女の悩みが伝わってくる。昔の伝統をそのまま変えずに保つことは経済的に成り立たない。経済的に成り立たせようとすると、伝統は変形する。それではラオスが日本のようになってしまうのではないか?と言う悩みだ。

ところでラオスとは何処か?地図を見ると、北は中国、南はタイ、西はミャンマー、東はヴェトナム、という位置関係。

そのため、彼女の村(ルアンナムター)には中国の資本で大規模なゴム林が作られているとのこと。ゴムの木が育てば、ゴム液採取に多くの人手が要る。その方が収入が良くて、村人は機織を止めるだろう、と言うのも彼女の悩みの一つ。

なーに、中国は外国の工場で現地の人を雇わず、中国人を連れてきて定住させ、中国人の人口比率を上げることを常套手段としている国。この村も直ぐ中国人村に変わるのではないだろうか?そして、チベット・ウイグル化する?

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長崎の隠れキリシタンの跡

大浦天主堂。ここで、1865年2月17日、一団の農民の群れから、一人の年配の婦人が神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁く。そして「サンタ・マリアの御像はどこ?」
浦上の隠れキリシタンたちが250年ぶりにヴェールを脱いだ瞬間でした。
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その場面がレリーフになっています。

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ここではコルベ神父が働いていたことがあります。彼はその後ポーランドの帰国し、アウシュビッツで身代わりを志願して餓死したことで有名です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99

隠れキリシタンが多く棲み、遠藤周作「沈黙」の舞台となった黒埼。そこの黒崎教会。


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ここで明治以後現地の貧しい人たちの生活を向上させるためにに活躍したドロ神父。
日本最初のマカロニはこの地で作られ、現在も「ドロ様そうめん」として伝わる。
近くには「遠藤周作文学記念館」もある。
P4140219_2 その前の海は多くの隠れキリシタンが海上ではりつけになって処刑された所。今は穏やかで美しい海である。


当時の賛美歌の楽譜が今も使われていた(4線譜)。 オルガンはドロ神父が使ったもの。

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熊本城

P4130200 素晴らしい石垣。


その先に幾つもある天守閣。

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中に入る。

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天井の木組み。

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お殿様の謁見の間。

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素晴らしい城だった。重厚で美しい。気宇壮大。再建にも膨大な費用が掛かったものと思われる。それだけのことはある。

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地の果て?ミャンマー バガン

驚いた。何となく郵便と言うものは世界の何処にでも届くものと思っていた。

ところが、届かない所があるのだ。例えば、ミャンマー バガン。

バガンと言えばミャンマーでは屈指の観光地(仏教遺跡が多い)。そこに撮った写真を送ろうと思った。写真をプリントし、手紙を書き、郵便局からEMS(国際郵便)で出そうとした。そして分かったこと。「郵便局からは送れない」

郵便局からミャンマーに送れるのは、首都ヤンゴンと新首都ナイプイト(?)の一部の地域のみ。他の所には送れないのだ。仕方がない。郵便局が受け取らないのだから。

帰ってDHLとFEDEXに電話をしてみる。FEDEXは配達区域外で送れない。DHLは空港のある町だけなら送れる。しかし私の送りたいのは空港から少し離れた所(東京と成田程ではないが、同じ町ではないと思う)。

ミャンマー大使館に電話して聞いてみる。「私達は外交文書で用が足りていますから存じません」 そうでしょうとも、聞いたほうが馬鹿だった。

と言うことで今の所、ミャンマーに行く友人に頼んで届けてもらう他なさそう。

もっとも、その後の調査でバガンに日本のホテルがあることが分かったので、明日電話して聞いてみようと思っています。まああまり期待していないが。

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今日、バガンのサクラホテル東京出張所に電話した。「TNTを使っています」。なるほど。

でTNTに電話してみる。「私どもは企業間の運送しか扱っていません。個人は対象にしていません」ああ、そうですか。ところで個人宛の国際宅急便でミャンマーに送ってくれるところは知りませんか?「OCSはどうですか」

OCSを探して電話しようとするが何処にも電話番号が書いていない。

万策尽きて、昨日電話したDHLにまた電話する。「バガンには送れないがバガンニャンウーなら送れる」

一体「バガンニャンウー」とは何か?バガンの地図を調べる。あった!空港のあるところだ。そこから私の送りたい場所までは約4キロ。しかも地図には大きく「バガンニャンウー」と書いてあって、送り先がそこに含まれている可能性がある。

再びDHLに電話。「バガンニャンウー」に書類と写真を送りたいが幾ら位か?」「6050円です。しかしDHLが送れるのはヤンゴンまで。それか ら先はミャンマーの国内郵便になりますので、配達の確認はできません」仕方ない。それを頼むことにする。自宅まで集荷に来てくれるという。これはありがた い。

しばらくしてお兄さんが来た。あて先を書いて「おいくら?」「書類だけなら6050円ですが写真があるので貨物扱いとなり、11000円です」 え!?

しかし乗りかかった船。仕方なく11000円を払った。お兄さん「貨物扱いですのでインボイスが要りますがこちらで適当に作っておきます。写真の枚数と値段を教えてください」仕方ない、適当に答える。

さあ、これで無事に着くか?成功確率50%か。なにしろヤンゴンまでは何を使っても着く。問題はその先なのだ。

中に返信用封筒を入れた置いたが、ミャンマーの切手は日本では買えない。着いても「着いた」と教えてはもらえないかもしれない。

カンペレが地の果てであることは分かっていた。しかしミャンマー第2か3の観光地バガンがこの有様。ああ、ミャンマーは最果ての国であった。

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ミャンマー カンペレ村 その5

今晩は奥さんの歓迎大パーティ。朝から準備が大変。招待客は約200名、子ども含む、イヌ含まず。
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子ども達も隅で待っている。 
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やっとパーティ開始。 

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イヌは呼ばなかったのだが。

カンペレ村舞踊団。単調だがパーティの華。

子ども達は別室でDVDに夢中(この村にテレビはない)

そしてボンファイアが最後を飾る。 

 

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ミャンマー カンペレ村 その4

孤児院

先のカソリック教会が運営している孤児院に行った。友人が病院のドクターに健康診断を頼んだのだ。歯科医師と二人で来てくれた。

孤児院の建物。
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勢揃いする子ども達。皆明るい顔をしている。栄養は行き渡っているように見える。年の順かせいの順に並んでいる。 
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診断は2階の広間で行われた。手前の白いシャツが歯科医。ドクターは茶色のシャツだが歯科医の陰になって見えない。 
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全員大きな異状はなく、小さなすり傷をした男の子が友人夫妻の手当てを受けた。 

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この後感心したのはドクターの言葉、「清潔な水が必要だ」 確かに、言われてみれば子ども達は乾いた泥の砂にまみれている。これを毎日洗う水がな いのだろう。早速水道の話が始まった。近くまで山の水がパイプで来ている。水利権はユネスコが持っている。これは多分交渉でなんとかなる。問題はパイプと タンクの費用。

流石。手すりの模様は十字架。 

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日本からの同行者の一人は元小学校の先生。早速子ども達と遊び始めた。
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ミャンマー カンペレ村 その3

カンペレ村のカソリック教会に行った。この村はクリスチャンが多い。この他にバプティストの教会もある。イギリスの植民地だったが、アングリカンチャーチはない。

教会の入り口。
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ミサが行われている。素朴な信者達。私は長崎の隠れキリシタンを連想した。彼らもきっとこんな風だったろ
う。

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教会の庭に立つマリア像。 
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カテドラル(?)の正面。中ではミサが続いている。 
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庭にはもう一つ、マリア様の丘がある。

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長いミサが終って皆さんパンを頂いた後外に出てくる。シスターの格好をした人が二人いた。聞けば4人ほど、シスターが住み込んでいるようだ。 


 

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ミャンマー・カンペレ村その2

翌日はヴィクトリア山(3053m)登山友人の歯の詰め物が取れたので、カンペレ村の総合病院に来ました。こざっぱりして建物です。

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これが歯科。視察台は日本から寄付された最新式。でも薬を買うお金が足りません。

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 ここで「ミャンマー・カンペレ村医療支援システム」の委員会が開かれました。委員は、この病院の医師、婦長、自然公園園長、そのレインジャー、です。友人自身は顧問になっています。この5月で任期が切れて帰国するからと自分では言っています。 

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翌日はヴィクトリア山(3053m)登山


途中で野焼きに会った。なんとか通過。

登山道は近隣の人たちの生活道路でもある。途中には彼らの野宿の跡もある。

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シャクナゲの大木が花盛り。赤いのがシャクナゲの花。日本のものとは少し違う。

P3070052 山頂について昼食。途中の村人から買った川魚を焼く。

シャクナゲ林の中を下る。

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